小田原にも空襲があった

newmoonakiko2007-08-19

戦後生まれの私の義務は、戦争の話を聞くことである。20歳にならない前から、それは厳守してきた。が、戦後62年、戦争を体験した方は、人口の3分の1になってしまった。これから先は、戦争といえば、ベトナム戦争と応える老人になり、かって日本が戦争を起こしたなどということは忘れ去られるかもしれない。それ以後、たとえば1976年生まれの息子にとっては、テレビ映像で見た湾岸戦争1984年生まれの息子にとっては、アメリカの9・11テロ事件。戦争といっても、みな他国の話である。こう考えていくと、敗戦の後62年間、日本はいかに平和であったことがわかる。少なくとも、徴兵に息子たちをとられなかったことは、母としては実にありがたいことだ。
今年は、市民学習フロアで開催された「小田原にも空襲があった −戦時下の暮らしー」に参加して、宇佐美ミサ子さんや、飯田耀子さんらの戦争体験者の話を聞く。終戦の日の未明、小田原国際通りがB29に襲撃され、火の海と化し、死傷者100人余、被災家屋400戸、1800人が焼け出された。しかし、なぜ15日、あと10時間後には、天皇から終戦の詔が放送されるというのに。飯田さんによれば、アメリカは綿密な日本上陸作戦を計画。そのひとつに酒匂川東部から上陸、首都圏を攻撃するXディが予定されていたのだという。小田原上空では、日常的にグラマン機が低空で回旋し、飛行士のガムを噛んでいる顔まで見えたという。それらの軍機はどこかに飛び去り、帰りは残りの焼夷弾を小田原に落として、帰っていったという。爆弾を積んでいては、着陸したときに、飛行機もろとも爆発してしまう。それを避けるためだというのだ。犠牲になるのは、女、子ども、体の不自由な人。この構造は、現在でもかわらない、イラク人のおかれている現状も同じだと。終戦の夜の小田原が、最後の爆弾の捨て場所だったとしたら、こんなにむごいことがあるだろうか。
実家をこの空襲で失った知人は、「ここに私の実家があったんだよ。こんな焼け野原の写真ではなく、確かに私の家があったという写真が見たい」と言った。誰のために何のために戦争をするのか、あえて愚直に問いたい。