言葉

辺見庸氏は、3月11日の5日後に北日本新聞朝刊に下記の文章を寄稿している。

わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

週刊金曜日NHKで語ったものをまとめた1冊が『瓦礫の中から言葉を』(NHK新書)だ。今こそ、リアルな言葉で現状を切り拓かなくてはいけないとは思うが、いまだに言葉不在なのはどうしてか?陳腐な言葉ではとうてい言い表せない、その原型そのものがあるのか、ないのか?辺見氏は、言葉と言葉との間に屍があると言っているが、屍を越えて掴める言葉などあるのだろうか。昨年、辺見氏が中原中也賞を受賞したのは知らなかった。