[本]グローバリゼーションと国際化

newmoonakiko2007-09-05

米原万理の「愛の法則」を読む。卵巣がんと闘うがゆえに、明快な弁舌はますます磨きがかかったのだろう。高校生を相手に男と女の話。生物学的にいかがかとも思われるが、有無を言わせぬ説得力だ。論より言葉だ。ただ、この人、恋人はいたんかいな、といううがった見方もちょっとしないでもない。
ただ、グローバリゼーションと国際化についての考察は、今までのどの学者よりもストレートに腹におちた。「アメリカ人のいうグローバリゼーションは、自分たちの基準を押しつけることであり、日本人の思うグローバリゼーションは世界の基準に自分を合わせることだ」と分析している。
私自身は、このグローバリゼーションという言葉には違和感があったが、実態が明らかになって、それって違うのではないかと思うようになった。その証拠にグローバリゼーションを日本語訳で見たことも聞いたこともない。初めて遭遇した言葉であり、日本の今までのしくみからは考えられない事態だったのではないか。
一方、国際化は戦後の日本人のひとつの目標であったことは確かだ。国際化するために英語を第2公用語にしようなんて話もあったぐらいだ。今や、そのようなことを現実的に考えるのは、文部科学省ぐらいで、市民は誰も考えてはいない。国民全員、英語であいさつできることに甘んじているが、別に困ってはいない。むしろ、私の住んでいる街でとびかっている言葉は、中国語であり、タイ語であり、韓国語であり、ポルトガル語である。国際化すればするほど、英語だけでは通用しないのである。これが庶民の実感だ。世界中の人々が英語を話しているというのは、錯覚だった。日本人は貪欲にさまざまな国の人間と暮らしを知って、すでに国際化とアメリカ化が同じものではないことを知っている。
しかし、一時期、国際化という言葉に日本人を幻惑させるなにかがあったことは確かで、この精神構造が、批判精神なくグローバリゼーションを受け入れてしまったのだろう。基準がアメリカであろうがなかろうが、多様な地域をひとつの価値でくくるのは、実に無理があるのだ。その無理は、世界中の弱い人々の上にのしかかっている。世界が食糧と生活に必要な技術と知恵をわかちあえたら、それでいいではないかと思うんだけどね。そのためにも、自分の足元から小さな穴を掘って、希望という鉱脈を探さないとね。