人体の不思議展

newmoonakiko2010-03-19

熊本県立美術館で開かれている「人体の不思議展」。なんで美術館で「人体の不思議展」なのよという「不思議」で入ってみた。そもそも「人体の不思議展」は、実物の人間の死体を標本として一般公開し、日本全国を巡回している営利的展示で、この展示の倫理性に疑問をもち、死体の展示商品化と問題視する動きもある。

人体の不思議展」のHPには、こう書かれている。
新技術で作られたプラストミック標本は匂いもなく、また弾力性に富み、直に触れて観察でき、常温で半永久的に保存できる画期的な人体標本です。医療の現場など特定分野でしか知りえなかった「人体標本解剖」の一般公開を可能にした革新的技術。「人体の不思議展」において、その感動を直接体感できます。
本展で展示されておりますプラストミック標本は、生前からの意思に基づく献体によって提供された大変貴重な標本です。
ご観覧の際には充分に御配慮くださいますよう、皆様のご理解・ご協力をお願いいたします。
また、標本にお手を触れて観察する際には充分お気をつけください。
お子様連れのお客様は、小さなお子様が筋肉や神経などを引っ張ることのないよう、ご注意くださいますようお願い申し上げます。

つまり本物の人体が、輪切りにされたりして展示されているのである。私は、会場を早足でぐるりと回って出てきた。出口に健康診断コーナーがあって、長い列ができている。記念のTシャツやらも売っている。係員に写真撮影を申し出たら、会場の外ならいいといって、Tシャツを持ってくれた。聞くところによれば、平日は1日1000人、土日は4000人の来場者があるという。なぜ、美術館でと聞きくと、精密に人体を書き写すことからアートが生まれた、そういう流れで開催したという。

しかし、人体はアートではなく、人体標本は見世物ではない。人間は一本の葦というなら、身体は一本の管にすぎない。ただ、考えることのできる葦であり感じることのできる管である。人体の不思議は、すべての臓器を間違いなく動かす、その不思議である。人体の標本を見るだけではそれはわからない。見えるものしか見ない人は、あくなく見たいものである。見えないものを見たいと思うほどに、見えないものが信じられなくなる。標本になった人の魂は?と思える感受性を失ったら人間廃業だ。