[文学]動く石碑

北村透谷は1868年小田原市に生まれた。文学史を学んだ人なら、北村透谷から日本近代文学が始まったと教わったことと思う。明治維新の年に生まれ、一時期自由民権運動に関わり挫折ののち文学に転じる。その後、キリスト教の信仰の世界に入るが、25歳の若さで自殺した透谷はある意味「新しい日本人」であったわけだ。が、それゆえに当時の人々にとっては理解できない人物だったのかもしれない。ちなみに坂本竜馬31歳で亡くなる翌年に透谷が生まれている。透谷の資料の多くは、町田市にある自由民権資料館にあると聞いている

透谷の記念碑は、「北村透谷に獻す」 とあり、左下に は 「萬物之聲と詩人」 など10の透谷の作品名が書かれている。「明治元年小田原に生れ/同二十七年五月東京に没す 昭和四年五月十六日建之」 と彫られている。畏友島崎藤村の筆により、大久保神社内に建立された。その後、小田原城跡公園に移転され、私はこの石碑の一角が気に入っていた。もっとも、この碑を建てることに地元の人々は冷ややかだったというが、そのエピソードも「いかにも」という感じで悪くはない。

さらに56年後の今年、小田原城整備のため、透谷碑は3度目のお引越しをした。透谷のお墓のある長泉寺へ移転する計画もあったが、人が来過ぎて困るという檀家の声が多く、断念したという。「透谷、ここに眠る」というにはあまりにも大きすぎる石碑だったのかもしれないが、人が来過ぎてこまるという反応も「いかにも」でわるい感じはしない。

それにつけても、3回も動く石碑というのも珍しいのではないか?今、小田原南町の小田原文学館の庭の片隅に静かにただずんでいる。なんだか、身を縮めているようにも見えるが。透谷没後、120年以上が過ぎた。100年後、透谷の生まれ故郷を訪れる人がいるのかな、どんな人かなと想像している。
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