被曝から人間復活の未来のために

「8月15日を考える会」主催の「被爆・被曝(ひばく)〜ヒロシマナガサキそしてフクシマ」には、狭い会場に100人近くが参加。「脱原発をめざす首長会議」事務局長の上原公子・元国立市長の講演に聞き入った。さすが、百戦錬磨の活動家、なかなかの迫力だ。ただ、一箇所口ごもるところがあったとしたら、やはり福島の市民感情の複雑さだ。憲法で定められた基本的人権を自ら守れといっても当事者のそれぞれの環境はそれを許さない。はたから見ていると、イライラするぐらいなのだ。それは、私の仲通りに暮らす従姉妹を見ても、あるいは仕事で知り合った農家を見てもそう簡単にはいかない。政府のいうとおりでいい!と言われてしまうと、その政府は・・とか言えなくなってしまう。1年半もたってしまったんだ。お上のいうことを信じているときではない、自分で判断してというのが精一杯だ。ヒロシマナガサキも、さまざまな分断があったけれども、それでも希望はあったように思う。その犠牲の上にうちたててきた民主主義国家の中で起きた福島原発事故。未来、人間関係、コミュニティ、生きる希望、自立を失い、不信と不安、争いと差別を生み出しているとしたら、なんのために平和を求めてきたのだろうか?上原さんは、憲法の前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」。つまり、政府の間違いがあれば、これを正すのが国民の義務なのだ。そのためには、不断の努力をしなくてはならないと第12条に書いてある。なかなか、よく出来た日本国憲法だ。ひとりひとりが、主権者であることを自覚して、これからの日本を考えることが、福島の人々と連帯することではないかというのは実に正論である。まずは、学んで、要求すべきことは自らの責任おいて発言しよう。仲間はかならずいると思うし、それしか世の中変えられない。