終わりよければすべてよし

newmoonakiko2007-08-11

終末医療をわが身で体験した私は、あらためて夫が自宅で死を迎えられたことに感謝したい。1年間、入退院を繰り返した夫は、もう治療の方法がないなら、病院にいる必要がないときっぱり口に出した。どの時点で、そう考えたかは、わからない。ただ、そう考えても、実際には、何回か救急車で運ばれて、対処療法をしてもらわなければならなった。口から食事がとれなくなった時点で、私たち家族は、担当医から「あと、1週間」という、ただならぬ状況を聞く。「どうすれば、楽にさせてあげれるか」「自然に死を受け入れることだよ」という先生の一言で、家に帰ることが決まった。ベットに横になったまま乗った車で、ちょうど桜の盛りの小田原の街をゆっくりと走った。
この時、夫の身は担当医からかかりつけのクリニックの先生へとバトンタッチされた。長いおつきあいのY先生からは、もう1回入院させて様子をみようと提案があった。訪問看護の先生が加わり、シビアな話し合いがもたれた。死を敗北と思うY先生と、看取りの現場を見ている先生の見解は違った。最後は、息子たちの「家にようやく帰ってきたんだから、もういいじゃないか。かわいそうだ」という言葉で、再入院はしないと決まった。それから、1週間、すばらしく有能な訪問看護のスタッフに支えられ、私たちは、家族そろった当たり前の時間を過ごした。
ご飯を炊くにおい、味噌汁の香り、鳥の声、竹林を抜ける風の音・・。ベットのまわりの本を見て、看護士のUさんが、「こういうお仕事をする方なんですね」と言われた。病院では、何号室のだれそれさんだが、家に帰れば、生き様の見える個人に戻れるのだ。父であり、祖父であり、私にとっては、夫であり、さまざまな顔を持つ、まるまる人間の死を我々は、受け入れた。
夫が息を引き取る時、私は彼のベットの下で、洗濯物を畳んでいた。それほど、おだやかな死であったのだ。
今思えば、医療病院と緩和ケアと訪問看護の3つがそろえば、もう少し、肉体的精神的にも余裕がとれたかもしれない。最後の退院の時には、もう何かあっても病院の責任ではないという一言があった。もし、かかりつけの先生がいなければ、家に戻ることは困難だったろう。

どんなに医療が進歩しても、誰にも死は訪れる。生きている者にとって、看取りは大事な役割だと思う。死の側から医療を考える地域の医師と訪問看護のプロがいれば、自宅の死は可能だ。小田原でも、それはできると思う。

この映画、2回上映されて、300人近い方が鑑賞した。あしがら地域も、高齢化時代に突入する。この地域に生きて、「終わりよければすべてよし」といえる看取りのしくみを作り上げなくては。