山下惣一さんと有機農業

newmoonakiko2008-07-15

「at」という季刊雑誌に山下惣一さんが「私が有機農業をやらない理由」という文章を寄せている。私が、山下さんに聞きたくて聞けない質問の答えがここにあって、それは見てはいけないものを見たという感じがしなくもなかった。昭和30年代からの50年、1匙の化学肥料が青春の屈辱である「肥え汲み」を、少量の除草剤が過酷な草取りを解消した。その化学薬剤の功績を私も罪づくりとは言い切れない。そうして出来た作物も、我々の命をつなぐものであったし、今もそうであるのだから。

農業の近代化の光の面、功罪の功の部分の有難さを身をもって経験したことが、有機農業にふみだせなかった主因という山下さんは、さらにこう告白している。「33年間人の健康を害する葉タバコ栽培で生活しながら、米や野菜だけは有機農業でやる。そんな器用な生き方はできなかった」と。なんとなく、この部分は、あとからとってつけた理屈のような気もするが、素直に受け止めてみたい。山下さんの存在感は、「私はタダの農業派」と言い切れるところにある。「有機農業のリーダー」とは、一味も二味も違う。

その山下さんがして理念共感、現実離反の悩ましい有機農業への共感と期待をこう書いている。第1は、農業の効率化、規模拡大という現下のこの国の農政の「構造改革路線」のアンチテーゼとして、第2に「命」を見つめるために 第3にオルタナティブな世を作り出す有機的結合の「核」として。つまり、すべてに信頼の置けない「崩信の時代」に有機農業が「世直し装置」としての役割を果たして欲しいということなのである。

私は、理念共感だけでいける消費者なのだ。何かを我慢すれば、10kg5000円の有機米が買える。もしもの時には、100円のインスタントラーメンで生き延びていく覚悟もある。ときおり、こうした現実離反は当然ながらやっている。しかし、おおむね「私が有機野菜を食べる理由」は、まさしく「世直し装置」としての有機農業に期待し、食べることでその地平を耕していると勝手に思っている。

横須賀・長井有機農業研究会のメロン。今年の初物だ。有機農業に精を出す鈴木浩之さんも、山下さんの熱烈なファン。ふたりのやりとりをハラハラしながら聞いたが、山下さんの悩ましさが毒舌に向かわせるとすれば、むしろほほえましくもある。